清華大学図書館 経営学部助教授 汪 志平
私が1986年秋に北京の清華大学を離れて日本に来てから、早くも12年が経った。この間、帰国する度に母校を訪ね、広々としたキャンパス(南門から北門まで約3キロもある)に6年間の青春時代の思い出を捜す。最も記憶に残っているのは、やはり図書館で過ごした時である。清華大学の前身は、1911年にアメリカが清政府の戦争賠償金の一部をもって作った「清華留美予備学校」であった。当初、中国全土から厳しい試験によって選ばれた優秀な青年達が、ここで2年〜4年間勉強し、英語、数学、物理学、化学などの基礎学力を強化して、全員奨学金つきで(もちろんこの奨学金も清政府の賠償金から支払われていた)アメリカの名門大学に留学した。余談になるが、明治政府は清政府の賠償金をもって八幡製鉄所を作ったそうである。このような経緯から、清華大学からアメリカに留学した若者の多くは、その後もアメリカに残り、多くの分野で活躍した。事実ノーベル物理学賞をとった者が3人もいる。もともと清華大学は総合大学だったが、1954年 に中国政府が各大学の学科配置に対して大幅な調整を行った際、社会科学、人文科学の学科をすべて北京大学に持って行かれ、代わりに北京大学の工学関係の学科が清華大学に併合された。これ以後、清華大学は理工系にとくに強く、「中国のMIT」と呼ばれるようになったのである。しかし、1978年以降、改革開放の時代に入った中国では、国際スタンダードな社会科学、とくに経済学、経営学、社会学、法学などに対する需要が日増しに高まり、清華大学は全国で最初の大学院教育中心のビジネス・スクールを設立して朱鎔基(現在の首相、当時国家経済委員会次官)を院長に招いた。その後、人文社会学院、中国21世紀研究院などを相次いで設立し、総合大学への道を歩み出した。現在、朱鎔基首相のほかに、胡錦濤国家副主席、呉邦国副首相など、OBから指導者を輩出し、清華大学の人気が急上昇して、中国では「大清帝国・北大荒」の流行語まで現れ(『朝日新聞』1998年8月2日の「閑話休題」)、北京大学を抜いて「中国最著名大学」に選ばれている。大学アカデミズムのシンボルである図書館は、中国建築と西洋建築を折衷したものである。蔵書数は約300万冊、北京大学の約450万冊に次ぐもので、理工系図書がとくに多い。入口にはガードマンが立っていて、学生証や教職員の身分証明書の提示を求める。この夏に北京に行ったとき、私はここの卒業生で現在日本の大学に勤めていると説明して、入館させてもらった。入って階段を上がると、大きな検索ホールがあり、60台のコンピュータが並んでいる。中国の大学では、大部分の教員が日本の大学のように研究室を持たないため、机に向かっての仕事の場合は、自宅のほかに図書館の閲覧室しかなく、教師専用の閲覧室が設けられている。また、学生は全寮制で、教職員もほとんど宿舎に入っているため、大学キャンパスはひとつの町と同じで、病院、郵便局、銀行、警察署、レストラン、ホテル、デパート、ガソリンスタンド…と、すべて揃っている。学生寮は学部生の場合6人一部屋、大学院生の場合は3人一部屋のため、部屋での勉強はほとんどできない。そのため自習用教室と図書館の閲覧室はいつも満員である。数年前、北大の日本人教授と一緒に清華大学を訪問した際、日曜日にもかかわらず満員の閲覧室を見て、彼は深く感心したものである。学生の借用図書に対する管理は厳しく、借りている本のうちで1冊の期限が過ぎたら、即貸出停止になる。そのためほとんどの学生は、本を借りたらすぐ一生懸命読んで期限内に返却する習慣を身につける。朝の6時半頃から図書館大門の前に学生の行列ができ、英語などの本を読みながら開門を待つ、このような光景を日本ではまだ一度も見たことがない。